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インターネットの歴史

公開日:2024/11/13

最終更新日:2024/12/02

インターネットの歴史について

この記事は、 インターネットの歴史を、 当時の登場人物やキーワードに焦点を当てて紹介するサイトです。
冷戦時代に天才たちによって設計された通信ネットワークが、 パケット交換やARPANETといった画期的な発明を経て、 どのように発展・普及していったのかを、オリジナルの年表や詳しい解説を通じて掘り下げています。 技術だけではなく、 インターネットを生み出した時代背景や人々の思いを知ることで、 インターネットの歴史がより身近に感じられる内容になっています。

インターネットの歴史 - 時代背景

1957年10月4日。
ソ連は人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した。 この快挙は、ソ連が大陸間弾道ミサイルの技術を所有している証拠になった。 アメリカ中に衝撃が走り、海を越えた核攻撃の現実味に人々は恐怖を覚えた。

翌年1958年。
アメリカ政府は国防省内にARPA(Advanced Research Projects Agency)を創設した。 この組織はアメリカの技術的優位を維持し、 ソ連をはじめとした東側諸国による予期せぬ技術的進展から米国を防護することを目的にしていた。

1961年5月28日。
ユタ州西部で謎の爆発が発生した。 この爆発により3つの大陸横断電話中継基地が破壊され、 軍事回線やテレビ回線、 長距離電話回線が不通になった。 わずか3つの電話中継基地が破壊されただけで軍事回線が不通になり、 国防の通信命令系統が機能不全に陥った。

この恐怖の中、米国防省はソ連の攻撃を受けても耐えうる通信ネットワークの研究を始めた。

インターネットの歴史 - 年表

インターネットの歴史年表です。この年表を見ながらインターネットの歴史(本編)を読むと理解度が上がると思います。

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インターネットの歴史 - 人物とキーワード一覧

インターネットの歴史を知る上で重要な登場人物とキーワードの一覧です

インターネットの歴史 - 歴史を形作った人物一覧

インターネットの歴史 - キーワード一覧

インターネットの歴史 - 本編

第1部: インターネットの歴史 - 冷戦下の脅威と天才たちの構想

第1章:インターネットの歴史を変えた夜

1957年10月4日金曜日の夜、
ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したと発表した。

この出来事はソ連が大陸間弾道ミサイルを発射できることを証明したものであり、
一夜にして、戦後盛り上がっていたアメリカの自信と楽観主義は恐怖と絶望へと変わった。

ソ連のニュースが報道されてから11日後の1957年10月15日、
第34代アメリカ合衆国大統領アイゼンハワーは国内屈指の科学者を集め、長時間の議論を行った。 この国家危機の中で、アイゼンハワーによりARPAが設立された。

その目的は、ソ連に対抗するための科学技術の研究開発を加速し、国家安全保障を強化することだった。

第2章:未来を見た男 J.C.R.リックライダー

1950年代初頭、コンピューティングとは、計算を高速に行うことを意味していた。
1953年、タイムクロックや電気機械式集計機器の国内最大手メーカーであったIBMが、 大型電子コンピュータの製造事業に参入した。

そして、1950年代後半、
IBMが10億ドルの売上を達成したちょうどその頃、 エンジニアのケン・オルセンがそれまでのものとはまったく異なるユーザーと直接対話する小型コンピュータを作り上げた。
オルセンの対話型コンピュータのアイデアは、 MITのコンピュータ研究者の先駆的なグループから生まれた。
彼らはそれを「タイムシェアリング」と呼び、 遅くて扱いにくい従来の「バッチ」処理方法に代わる魅力的な方法だった。
バッチ処理は面倒な計算方法で、結果が出るまで1日以上待つことも珍しくなかった。

タイムシェアリングは、 多くのユーザーが個別の端末からコンピュータにアクセスできるようにする新しい方法で、 バッチ処理の特徴である面倒な待機時間の多くを解消したことだった。

ジョセフ・カール・ロブネット・リックライダーは1915年にセントルイスで生まれた。 彼には科学者になりたいという夢があった。 1937年にワシントン大学を卒業したとき、 心理学、数学、物理学の学士号を取得していた。

同僚の多くは、彼の問題解決能力に畏敬の念を抱いていた。 彼はかつて、世界で最も洗練された直感の持ち主と評された。

1950年までに、リックライダーは MITの音響学研究所で働いていた。 翌年、MITがアメリカ空軍向け防衛システム開発を目的としたリンカーン研究所を設立した。 ソ連の脅威に対処した彼らの研究は「チャールズ計画」と呼ばれた。 その主なプロジェクトは、「遠距離早期警戒ライン(DEWライン)」だった。 これは、ソ連からの爆撃機やミサイル攻撃を早期に検知するレーダーシステムのことで、 ハワイからアラスカ、カナダ諸島からグリーンランド、 そしてアイスランドとイギリス諸島まで広範囲にレーダー網が展開された。

このような複雑な構造の通信、制御、分析は、コンピューターでしか処理ができなかった。 その要件を満たすために、リンカーン研究所はまずMITのコンピュータープロジェクトであるWhirlwind(ワールウィンド)に着手し、 その後、ソ連軍原爆搭載の爆撃機を発見し、要撃するための自動化されたコンピュータシステムSemi-Automatic Ground Environment (SAGE)と呼ばれる後継プロジェクトを開発した。 SAGEシステムは、世界初のリアルタイムコンピュータシステムと言われ、リックライダーを含む数人の思想家に、 コンピューティングをまったく新しい観点から見るきっかけを与えた。

リックライダーがコンピューターの可能性に興味を持ったのは、 1950年代にリンカーン研究所で、ウェズリー・クラークという若いエンジニアと出会ったときだった。
クラークは、当時のデジタル計算の最先端のマシンTX-2マシンに取り組んでおり、リックライダーにTX-2を見て基礎を学ぶように勧めた。クラークとのセッションはリックライダーに忘れられない印象を残した。 彼は心理学からコンピューターサイエンスへと興味を移していった。

リックライダーは1960年に論文「人間とコンピューターの共生」を発表し、 人間とコンピュータが協力することで、 それぞれ単独では成し得ない優れた成果を生み出せると提案した。

「近い将来、人間の脳とコンピュータが密接に結びつき、 その協力関係が、人間がこれまで考えもしなかった新しい方法で物事を考え、 現在のコンピュータでは不可能な形でデータを処理できるようになることが期待される。」リックライダーのビジョンは、人間が目標設定や仮説の構築、 評価を担当し、コンピュータがその準備や反復的な作業を引き受けることで、 複雑な問題に対処するというものだった。 この「共生」の考え方は、業界に新しいインパクトを与えた。

1962年のある日、ARPA初の化学出身者の3代目所長であるジャック・ルイナが、 新しい仕事についてリックライダーに電話をかけてきた。 このとき、リックライダーARPA内に新設された情報処理技術部門(IPTO)の初代所長に任命された。 彼に与えられた主な任務は、コンピュータを科学計算のツール以外の用途に使うことだった。

リックライダーは、国内有数のコンピュータセンターを探し出し、研究契約を結ぼうとした。 すぐに、彼はスタンフォード、MIT、UCLA、バークレー、そして数社の企業から、 当時の最高のコンピュータサイエンティストに連絡を取り、ARPAの領域に引き入れた。リックライダーの側近は全部で12人ほどで、リックライダーはそれを「銀河間コンピュータネットワーク」と名付けた。

リックライダーがARPA に着任してから 6 か月後、銀河間コンピュータネットワークのメンバーに長いメモを書き、 その中で、さまざまなプログラミング言語、デバッグシステム、タイムシェアリングシステム制御言語、 およびドキュメントの急増に対する不満を表明した。 そして、リックライダーはコンピュータネットワークの仮想的な問題について論じた。

「いくつかの異なるセンターが網の目のようにつながっている状況を考えてみましょう。 各センターは極めて個性的で、 独自の言語と独自のやり方を持っています。 すべてのセンターが何らかの共通言語、 あるいは少なくとも『あなたは何語を話しますか?』といった質問をするための何らかの慣習が必要ではないでしょうか。 この問題は本質的にSF作家が論じている問題と同じです。 つまり、まったく無関係な知的存在の間でどうやってコミュニケーションを始めるかということです。」

リックライダー銀河間コンピュータネットワークの概念を提唱した。 このネットワークは、一部の人々がメモを送るだけのものではなく、 全員が情報を共有し、アクセスできる、相互接続されたコンピュータの宇宙を目指すものだった。

第3章:ポール・バランとドナルド・デービス: 異なる地で生まれたパケット交換

1960年代初頭、 まだ、インターネットができる前、ポール・バランドナルド・デービスという2人の研究者が、 お互いに全く面識がなく、大陸を隔てて異なる目標に向かって研究していた。
彼らのコンセプトの実現は、のちにパケット交換として知られるようになった。

バランのアイデアは「分散型ネットワーク」だった。 その構成は、中央に通信を一括管理する通信スイッチを置かず、 複数のノードが互いに接続されたネットワークを構築するというものだった。
2つ目のアイデアは、 各メッセージを分割し、 それぞれを「メッセージブロック」としてネットワーク内に送り出す仕組みを提案した。 これらのメッセージブロックは、それぞれが異なる経路を通って宛先に届けられ、 受信側で元のメッセージに再構築されるものだった。

バランが思い描いたのは、無人のスイッチが接続しあうネットワークであった。 このネットワークは、各ノードが「自己学習ポリシー」を持ち、 中央に制御ポイントを必要とせずにメッセージをルーティングする仕組みだった。 彼はこの方法を「ホットポテトルーティング」と名付けた。

イギリスの計算機科学者デービスは、バランのネットワークによく似た新しいコンピュータネットワークを構想していた。 短いデータブロック (彼はこれを「パケット」と呼んだ) をネットワークで送信する概念について説明した。

バランデービスの研究の技術的な類似性は驚くべきものだった。 彼らのアイデアは概念的にほぼ類似しているだけでなく、 偶然にも同じパケットサイズとデータ転送速度を選択した。

第2部: インターネットの歴史 - ARPANETの誕生

第4章:ロバート・テイラーとローレンス・ロバーツが描いたネットワークビジョン

ロバート・テイラーはかなりの直感力の持ち主として知られていた。

彼は1965年初頭、リックライダーの退任後、ARPAに入社し、情報処理技術部門(IPTO)の2代目所長であるアイバン・サザランドの代理として働いた。 数ヵ月後の1966年、34歳のテイラー情報処理技術部門(IPTO)の3代目所長となり、 リックライダーが確立したビジョンを引き継いだ。

彼が情報処理技術部門(IPTO)を率いたとき、 ARPAの局長はオーストリアの物理学者、チャールズ・ハーツフェルドに変わっていた。ハーツフェルドは前局長ルイナよりも資金の使い方が迅速かつ緩やであると有名だった。

テイラーはまっすぐハーツフェルドのオフィスに向かった。 他のプログラムディレクターたちは、 ウィーンなまりの強い大男ハーツフェルドに少々威圧された。 しかしテイラーは、この男に恐れるものは何もなかった。

テイラーは、ARPAが小規模なテストネットワークに資金を提供し、 たとえば4つのノードから始めて12個程度に増やすことをハーツフェルドに提案した。

たった20分で「素晴らしいアイデアだ」とハーツフェルドは言った。 「やってみよう。今、予算に100万ドル余っている。」
こうして、ネットワークの実験が始まった。

テイラーには予算があり、ハーツフェルドの支援もあったが、 そのようなネットワークの設計と構築を監督できるプログラムマネージャーが必要だった。 その人物は、リックライダーのアイデアを知り、 幅広い技術的問題に精通した一流のコンピューターサイエンティストでなければならなかった。

テイラーの頭の中には、すでに候補がいた。 それは、リンカーン研究所出身の、ローレンス・ロバーツだった。ロバーツは天才という評判だった。 28歳にして、コンピューターの分野では多くの科学者が一生かけて達成する以上の成果をあげていた。

ハーツフェルドテイラーの提案を承諾してからほぼ1年が経過したが、 ネットワーク化のアイデアはプログラムマネージャーの不在により行き詰まっていた。

1966年後半のある日、テイラーはARPAのオフィスに戻り、 ネットワークプログラムを実行するエンジニアを見つけるのに苦労していることをハーツフェルドに説明した。ハーツフェルドは受話器を取り、リンカーン研究所にダイヤルした。 短い会話だったが、ハーツフェルドは電話を切ってテイラーに微笑みかけ、「まあ、いいでしょう。どうなるか見てみましょう」と言った。

2週間後、ロバーツはその仕事を引き受けた。ローレンス・ロバーツは、ARPAに入ったとき29歳だった。

ARPAに入社する前、ロバーツはコンピュータネットワークの基本的な概要をすでに把握していた。 その後、プロジェクトが拡大するにつれて、綿密なネットワーク図を描き、 データラインが通る場所やノード間のホップ数をスケッチした。 トレーシングペーパーと方眼紙に、概念的および論理的なスケッチを何百も作成した。

1967年初頭、ミシガン州アナーバーで開かれたARPAの主任研究者の会議がネットワークの発展を前に進めた。

会議はテイラーが招集したもので、議題の主要項目はネットワーク実験だった。 彼のアイデアは、すべてのコンピュータを電話回線で直接相互接続するというものだった。 しかし、このアイデアはあまり受けなかった。対処しなければならないバリエーションが数十個はあった。 たとえば、TX-2をUCLAのSigma-7やSRIのコンピュータと通信するにはどのようにプログラムすればよいか。 マシン、オペレーティングシステム、プログラミング言語はすべて異なっていた。

会議が終わる直前、 計算機科学者であるウェズリー・クラークロバーツにメモを渡した。 そこには「ネットワークを隅々まで理解している」と書かれていた。

クラークのアイデアは新しい解決策だった。 ルーティングに特化した、相互接続されたサブネットコンピューターネットワークを作ることだった。 このネットワークを構成する小さなコンピューターはすべて同じ言語を話し、 ホストコンピューターではなくそれらのコンピューターがすべてのルーティングを担当する。 ホストコンピューターは、サブネットのコンピューターと接続するときのみ調整するだけで済む。クラークのアイデアは、ホストコンピューターに余分な負担をかけないようにし、 ルーティング専用のコンピューターのネットワークを構築することだった。

会議場から空港に向かう車中で、議論は白熱した。 多数のコンピュータで構成されたサブネットワークは、 法外な費用がかかるのではなかろうか。
また、「誰がそのようなものを構築できるのか」とロバーツは尋ねた。 「国内でそれができるのはたった一人だけです」とクラークは答えた。

フランク・ハート」です。

ワシントンに戻ったロバーツは、クラークのアイデアを記したメモを書き、レナード・クラインロックらに配布した。 彼は、ネットワークを制御する中間コンピュータを「インターフェースメッセージプロセッサ」またIMPと呼び、 「インプ」と発音した。
これらのコンピュータは、ネットワークの相互接続、データの送受信、エラーのチェック、エラー発生時の再送信、 データのルーティング、メッセージが目的の宛先に届いたかどうかの確認などの機能を実行することになっていた。

ロバーツは、このときネットワークはUCLASRIユタ大学カリフォルニア大学サンタバーバラ校の4か所から始めて、 最終的には19か所ほどに増やすべきだと考えていた。

UCLA が最初の拠点として選ばれたのは、レナード・クラインロックのネットワーク測定センターがあったからだ。 スタンフォード研究所 (後にスタンフォードとの関係を断ち切り、SRI となった) が最初の拠点の1つに選ばれたのは、 並外れた先見の明を持つ科学者ダグラス・エンゲルバートがそこで働いていたためである。

1968年7月末までに、ロバーツは提案依頼書の原案を書き、 それをIMPの構築に関心のある140社に送った。

第5章:BBNに託された初代IMP開発

1968年8月、ARPAIMP構築の提案依頼がBBNに届いたとき、同社は30日以内に回答する必要があった。 当時ハートの上司だったジェローム・エルキンドは、 BBNが入札すべきだと考え、ハートが会社でその管理に最適な人物だと考えていた。

ハートの最大の強みの1つは、自分が引き受けた仕事を確実に完了させる能力だった。 プロジェクトには不確実性や未開拓の技術が満載だった。 提案書にはBBNの情報科学部門で働いていた電気工学の教授、ボブ・カーンも関わった。

1969年の元旦は、フランク・ハートのグループがしばらく休むことができた最後の日だった。

翌週、最初のIMPを構築する契約が正式に開始された。 BBNは100万ドル強で4つのIMPを構築することになった。

IMPのチームはコードの作成に取り掛かり、完成したときにはコードの長さは6,000語ほどになった。 彼らはすべてのプログラミングをHoneywell 516の「アセンブリ」言語で行った。

ある春の日、ハネウェルの配送トラックがBBNに到着した。 トラックの中には、BBNの仕様に合わせて製造された最初の516マシンがあった。 チームは、コンピュータをフロアに上げ、 明るい蛍光灯とエアコンを追加して、 倉庫をIMPのテストスペースに改造していた。 窓のないこの部屋は、チームで最年少の22歳のベンバーカーが多くの時間を過ごす場所になった。 バーカーはテスターを組み立て、 デバッグ用のコードをいくつか書いていた。 彼は、マシンにどんなバグがあってもそれを修正することを楽しみにしていた。

ところが、最初のIMPは失敗作だった。

残された時間はどんどん少なくなっていた。IMPのカリフォルニアへの配送予定日はわずか数週間後に迫っており、 BBN自身の評判が危機に瀕していた。

ついに、レイバーデー(アメリカの祝日:9月の第一月曜日)の約2週間前、 ハネウェルは最初の耐久性の高い516IMPを急いでケンブリッジに運んだ。

マシンがBBNの工場に届くとすぐに、 バーカーはバックルームでIMP1号機の電源を入れ、IMP診断コードをロードした。 実行しようとしたが、何も起こらなかった。 調べてみると、BBNが受け取ったマシンは注文したものではなかった。 この516には、バーカーとオーンスタインがプロトタイプのデバッグで苦労して行った変更はほとんどなく、 実際には、元の機能しないプロトタイプとまったく同じ配線だった。

締め切りが迫る中、 バーカーに残された手段は1つだけだった。 BBNで修正することだった。 マシンを大きな部屋の真ん中に置いたまま、 バーカーは、機能するIMPにするために必要な設計変更をすべて実装する作業に取り掛かかった。 数日のうちに、バーカーはマシンをなんとか起動させた。

1969年の春、クラインロックとUCLAホストチームが最初のIMPを受け取る予定の数か月前に、 ケンブリッジから厚い封筒が届いた。 パッケージの中には、 間もなく配送されるIMPにホストコンピューターを接続するための仕様書であるBBNレポート1822が入っていた。

BBNレポート1822では、 ホストとIMP間のインターフェイスを操作するために、 デバイスドライバー (周辺機器を制御するためのコードとテーブルの集合)と呼ばれるソフトウェアを作成するように書かれていた。

UCLAは、 Sigma-7のメーカーであるScientific Data Systemsの技術者に、 ホストコンピューターとIMPを接続するためのインターフェイスハードウェアの作成を依頼した。

しかし、同社の回答は期待外れだった。 何ヶ月もかかる上に、同社はこの仕事に数万ドルを要求した。 そこで、突如としてマイク・ウィングフィールドという大学院生が仕事を引き受けることになった。 ウィングフィールドはハードウェアの達人で、 ちょうど別のコンピューター用の複雑なグラフィックインターフェイスの作成を終えたばかりだった。

第6章:ARPANET誕生の瞬間

UCLAにIMPが到着する9月1日の1週間前、 ウィングフィールドはハードウェアを完成させ、 デバッグし、IMPに接続する準備を整えた。

ケンブリッジでは、フランク・ハートIMPをUCLAに輸送する最善の方法について考え、 航空貨物で輸送することになった。IMPが木箱に詰められると、 バーカーは赤いマジックマーカーで木箱の側面に大きな文字で「Do It to It Truett」と書いた。 このメッセージは、 ロサンゼルスのBBN技術者であるトゥルエット・サッチ(Truett Thach)に向けたものであり、 「慎重に扱ってほしい」「任務を確実に遂行してほしい」という激励の意図が込められていた。

木箱はボストンのローガン空港から早朝の便に積み込まれ、 サッチはその日の午後にロサンゼルスでそれを出迎えた。

最初のIMPがUCLAに設置されてから1か月後、IMP2号機が予定通り1969年10月1日にSRIに到着した。

ついにUCLAとSRI両方のIMPが設置され、両方のホストが稼働している状態で、 実際の2ノードARPANETをテストする時がきた。

もちろん、最初にやるべきことは接続することだ。 ユーザーにログイン名とパスワードの入力を求める今日のほとんどのシステムとは異なり、 SRIシステムは接続を確認する前にコマンドを待機する。 「LOGIN」 はそれらのコマンドの1つであった。

そこでUCLAにいたクラインロックは送話器に向かって「 anL と入力するよ!」と叫んだ。
クラインロックはanLと入力した。
「L はわかりましたか?」とクラインロックは尋ねた。
「1‐1‐4 でした」とSRIの研究者は答えた。
クラインロックが変換してみると、確かに送信されたのは anL だったことが分かった。
次にクラインロックはanOと入力した。
「 Oを手に入れましたか?」とクラインロックは尋ねた。
「117です」と返事が返ってきた。それはOだった。
次にクラインロックはaG と入力した。
「コンピュータがクラッシュしました」と SRI の担当者は言った。

クラッシュはしたもののこれでネットワークの接続は確認できた。

3台目のIMPは、11月1日にカリフォルニア大学サンタバーバラ校に設置された。 4番目はユタ州であった。このときすでに12月で、スキーシーズンの真っ最中だった。 また、この場所ではネットワーキンググループの会議が予定されていた。

通信リンクの数が増えるにつれて、そのレイアウトが興味深い問題になっていた。 まず、すべてのサイト間に相互接続するリンクがなかった。 経済的な理由から、ロバーツはUCLAとユタ州、 またはサンタバーバラとユタ州の間に直接リンクは必要ないと判断し、 ユタ州行きのすべてのトラフィックはSRIのIMPを経由するようにした。IMPが稼働している限りは問題なかったが、IMPがクラッシュすると、 ネットワークが分断され、SRI がオンラインに戻るまでユタ州は遮断される構造になっていた。

ネットワークは現実のものだったが、 西海岸に4つのノードが集まっているだけだったので、 トポロジー(ネットワークの設計は)は単純で、 実験は小規模だった。

今まで、多くのことが起こっていた東海岸のMITやリンカーン研究所は接続されていなかった。テイラーがネットワークについて夢想したまさにその場所、 ペンタゴンのARPA端末室はまだ配線されていなかった。IMPを開発したBBN自体もそうだった。

3月下旬、ARPANETの最初の大陸横断回線が設置された。 新しい50キロビット回線は、 UCLAのコンピュータセンターとBBNのモールトンストリートサイトを接続し、 BBNはネットワークの5番目のノードになった。

1970年の夏までに、6、7、8、9 番のマシンがHoneywellから出荷され、 MIT、RAND、System Development Corp.、ハーバードで稼働していた。

その後、AT&Tは、最初の国内横断リンクを、 BBNとRANDを結ぶ新しい50キロビット回線に置き換えた。 2番目の国内横断リンクは、MITとユタ大学を接続した。ARPANETは、1か月あたり約1ノードの割合で成長していた。

第7章:NWGとプロトコルの誕生: RFC、Telnet、NCP、FTP

1968年の夏、ARPANET計画に最初に参加した4つの拠点(UCLA、SRI、カリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学)から集まった大学院生たちがサンタバーバラで会合を始めた。 その会議をきっかけに、 ネットワークのホスト間通信について研究し、 議論し、計画を進める若い研究者たちのグループが形成された。

新しいグループが会合を始めてから1か月ほど経った頃、 UCLAの大学院生だったスティーブ・クロッカーと他の人々は、 議論のメモを蓄積し始めたほうがよいことに気付いた。

スティーブ・クロッカーは最初の議事録を書くことを志願した。 当時彼は友人と同居しており、最初のメモを徹夜で作成し、 家の中で誰も起こさないようにバスルームで書いた。 断定的になりすぎないように、 彼はそのメモに「Request for Comments」というラベルを付け、 1969年4月7日にARPANETに参加している拠点に送った。 「ホストソフトウェア」と題されたそのメモは、 最初のRequest for Comments (RFC) が配布され、 切手を貼った封筒に入れて他のサイトに届けられた。

RFC番号1では、 2台のコンピューター間の基本的な「ハンドシェイク」、 つまり最も基本的な接続の処理方法を技術的な用語で説明していた。

やがて、この集団は自らをネットワークワーキンググループ、 NWGと名乗り始めた。 それは、国内の若く並外れて才能のある通信プログラマーのための高等委員会だった。 主な課題は、プロトコルに関する基本的な合意を形成することだった。 「プロトコル」という言葉は、ネットワークユーザー間の合意が必要であることを反映し、 次第にコンピュータネットワークの世界で根付いていった。

しかし、1969年末になっても、 ネットワークワーキンググループはまだホスト間プロトコルを考案できていなかった。 12月のロバーツとの会議でARPAに何かを見せなければならないというプレッシャーから、 グループはリモートログインを可能にする寄せ集めのプロトコル、Telnetを発表した。

ロバーツは、Telnetの範囲が限られていることに不満だった。Telnetは、 1つの端末から複数のリモートコンピュータにアクセスできるようにするという点で明らかに便利でしたが、 リモートログインプログラムだけでは、 2台のコンピュータを連携させるという問題を解決できなかった。Telnetはネットワークを利用するための方法であり、 パケットの転送やルーティングといった低レベルの構成要素ではなかった。

ロバーツは、 彼らに試行を続けるよう指示した。 さらに1年間の会議と数十のRFCを経て、 1970年の夏、 グループはネットワーク通信の基盤となる新しいプロトコルを考案した。 これはネットワーク制御プロトコル(NCP)と呼ばれた。

一方、ハートのチームとロバーツは、 多くの新規ユーザーをネットに接続する可能性について何ヶ月も議論を重ねていた。

既存のIMPでは、 4つ以上のホストインターフェイスをサポートできなかった。 BBNはより多くの端末を接続できるインターフェイスの設計に取り組み始めた。 6か月以内に、BBNとHoneywellは316をベースにした2台の新しいプロトタイプマシンの設計と構築を完了した。 1台目は基本的なIMPで、 もう1台は、 一度に最大63台の端末を接続できる「TIP」だった。

最初の4つのノードは4台の異なるマシンを接続していたが、 他のホストサイトでは、 DEC PDP‐10から大型のIBM、 HoneywellやXeroxマシンまで、 互換性のないさまざまなコンピューターが混在していた。Telnetは、接続の確立や使用する文字セットの種類の決定などの単純な違いを克服するために考案された。TIPTelnetの組み合わせによって、 ネットワークの急速な拡張への道が開かれた。

次の課題はファイル転送だったが、
FTPにより、マシン間でファイルを共有できるようになった。 ファイルの移動は簡単に思えるかもしれないが、 マシン間の差異が激しかった当時、決して簡単ではなかった。 ファイル転送プロトコルの開発に費やされた6か月間、 チームはネットワークワーキンググループの定例会議で顔を合わせた。 1972年7月初旬、FTPの最終仕上げが行われ、 ジョン・ポステルがRFC354としてリリースした。

第8章:ICCC 1972: ARPANET初公開デモが世界を興奮させた日

ローレンス・ロバーツは、ARPANETの公開デモンストレーションを行う時期が来たと感じていた。ロバーツは1972年10月にワシントンで開催される第1回国際コンピュータ通信会議(ICCC)のプログラム委員会に所属していた。 彼はその日付に丸印を付け、 当時BBNにいたボブ・カーンに電話をかけ、 会議の展示としてARPANETのデモを企画するよう依頼した。 会議の開催までは約1年あった。

1971年半ば、カーンサーフは、 ケンブリッジにあるMITのテックスクエアで会議を開き、 全国から8人ほどの主任研究者を招集した。 この会議では、 ネットワークを通じて利用可能な魅力的なデモンストレーションを行うためのアイデアが提案された。 サーフは、このデモがライブでインタラクティブに実施され、 参加者が端末の前に座るだけで誰でも簡単に操作・制御できるものであるべきと考えた。

このデモに参加したいコンピュータ端末は40種類以上あった。 自社の機器がARPANETで動作できることを証明するよう求められた。 第1回国際コンピュータ通信会議の数日前、 ネットワーク機器と人々がホテルに到着し始めた。 この会議には、国際コミュニティは言うまでもなく、 「パケット スイッチング」という用語の生みの親であるドナルド・デービスも、 イギリスからやって来た。

月曜日の朝、ARPANETのコンピュータ科学者たちは、公開を熱心に待ち望んでいた。 2日半にわたるICCCデモには何百人もの人々が参加した。

40台以上の端末はほぼ正常に機能し、TIPは見事に機能した。ARPANET全体が活性化した様子を見てボブ・カーンはこう語った。 「まるで鉄道業界の人々が、実際に飛行機が飛ぶのを見るまで、それを信じられなかったようなものだ」

このデモは、コンピュータメーカーに新たな市場の可能性を強く認識させた。

第3部: インターネットの歴史 - TCP/IPの誕生

第9章:@の始まり: 電子メールの誕生

2台のマシンを使った最初の電子メールの配信は、 1972年のある日、 BBNの物静かなエンジニア、レイ・トムリンソンによって行われた。トムリンソンのプログラムは技術的には些細なものだったが、 文化的には革命的だった。

1973年、ルカシックはARPAに調査を依頼し、ARPANET上の全トラフィックの4分の3が電子メールであることが判明した。

第10章:無線と衛星が描いたビジョン: CATENETと国際ネットワーク

1970年代初頭は、コンピュータネットワークの実験が盛んに行われていた時期だった。 しかし、課題として残されていたのは、データを送るための通信媒体だった。 当時は、既存のAT&T電話回線網が当然の第一選択肢とされていた。

1969年、ロバート・テイラーはARPAを去る前に、 ハワイ大学に無線ネットワークを構築するための資金を調達した。

このネットワークを設計したのは、ノーマン・エイブラムソン教授と数人の同僚だった。 彼らは、4つの島に設置された7台のコンピューターを無線接続するシステムを構築した。 エイブラムソンはそれを「ALOHAnet」と呼んだ。

ロバーツカーンは、 コンピュータ間の無線リンクというアイデアを気に入った。 「もっと挑戦的なことに取り組んでみてはどうか」と考え、 車両や手で持ち運べる小型のポータブルコンピュータ「サイト」を構想した。 1972年にロバーツはその構想を詳しく説明した。 移動式コンピュータサイトの概念は、 特に陸軍にとって魅力的であった。 車両や航空機に搭載された戦場用のコンピュータは、 移動を可能にすることで固定設置のシステムよりも実用的であった。

長年にわたり、 パケット無線プログラムは少数の軍事施設で展開されたが、 技術的な課題や高コストのため、最終的には廃止された。

1970年代初頭には、 多くの通信衛星 (そのほとんどは軍事用) が軌道上に存在していた。 適切な装備があれば、これらの衛星は通信の中継装置として利用可能だった。 しかし、衛星通信は長距離通信を伴うため、信号に遅延が発生した。 パケットが宛先に到達するまでの平均所要時間は、約0.3秒で、 これはARPANETのホスト間の遅延よりも数倍長かった。

それでも、衛星通信を利用して接続するというアイデアは、 アメリカ政府だけでなくヨーロッパ諸国にとっても魅力的だった。 当時の大西洋横断の地上回線は高価でエラーが発生しやすかったためである。

この衛星ネットワークはSATNETと呼ばれ、 米国の研究者に加え、英国やノルウェーのコンピューター科学者が参加していた。 やがてイタリアとドイツへの衛星リンクも確立され、しばらくの間SATNETは順調に運用された。 しかし、電話会社が大西洋横断回線を銅線から高速光ファイバーケーブルにアップグレードしたことで、 より複雑なSATNETリンクは次第に不要になった。

1972年、ARPAは「防衛高等研究計画局(DARPA)」と名称を変更し、 ネットワーク研究を含む幅広い分野に対応する体制を整えた。

翌年、DARPAは「インターネットプロジェクト」と呼ばれる新たな取り組みを本格的に開始し、 ネットワークの相互接続技術の研究を進めた。

1972年にワシントンで行われたICCCのデモのころ、 いくつかの国家ネットワークプロジェクトのリーダーたちが、ヴィント・サーフを責任者とする国際ネットワーキンググループ (INWG) を結成していた。 初期メンバーには、ヴィント・サーフ以外にも、ローレンス・ロバーツ、 イギリスのドナルド・デービス、フランスのルイ・プーザンなどが参加していた。

INWGは、異なる技術と速度のネットワークを相互接続する「連結ネットワーク」、 略してCATENETの研究を開始した。

第11章:国際ネットワークプロトコルTCPの誕生

1973年の春のある日、サーフはサンフランシスコのホテルで会議に出席し、 ロビーに座ってセッションの開始を待っている間に、 いくつかのアイデアを書き留め始めた。 この時までに、サーフカーンは、 ネットワーク同士を接続するには何が必要かについて数か月間話し合い、 INWGの他のメンバーとアイデアを交換していた。

サーフカーンは、 必要なのは「ゲートウェイ」、 つまり、さまざまなネットワークの間に立ち、 メッセージを1つのシステムから別のシステムに渡すルーティングコンピュータであることに気づいた。

ロビーで待っている間に、カーンは設計図を描いた。

次に直面した課題は、パケットの伝送だったが、いくつかの厄介な問題があった。

まず、パケット無線、SATNET、ARPANETのネットワークは、 それぞれインターフェイス、最大パケットサイズ、伝送速度が異なっていた。 次に、ネットワークの信頼性の問題もあった。 無線および衛星通信では、ARPANETで苦労して実現した信頼性を実現するのは困難だった。

INWGの課題は、 自律的に動作するネットワーク同士を接続できる新しいプロトコルを設計することだった。

その年の9月、カーンサーフは、 ブライトンのサセックス大学で通信会議と同時開催されていたINWGに、 新しいプロトコルに関するアイデアとともに論文を発表した。

1973年末までに、サーフカーンは「パケットネットワーク相互通信プロトコル」という論文を完成させた。 その論文は翌年の春、広く読まれている工学雑誌に掲載された。

この論文で説明されているフレームワークでは、 手紙を封筒に入れたり取り出したりするのと同じように、 メッセージを「データグラム」としてカプセル化し、それを解除する仕組みが説明されている。 これにより、メッセージはエンドツーエンドのパケットとして送信される。 これらのメッセージは、「伝送制御プロトコル (TCP) メッセージ」と呼ばれる。 この論文では、ゲートウェイの概念も紹介された。 ゲートウェイは封筒の宛名部分のみを読み取り、 内容そのものは受信側ホストだけが確認できる仕組みを提供するものだった。

TCPが完成すれば、誰でもあらゆるサイズや形式のネットワークを構築でき、 パケットを解釈してルーティングできるゲートウェイコンピュータを用意すれば、 他のネットワークとの通信が可能になる。 TCPの実現により、 ネットワークには実験的なARPANETをはるかに超えた未来が待っていることが明らかだった。

1973年8月、 TCPがまだ設計段階にあったころ、ARPANETのトラフィックは1日平均320万パケットにまで増加していた。

しかし、ネットワークへのアクセスは依然としてDARPAと契約のあるサイトに限定されていた。

第12章:リックライダーの使命と: DARPAからDCAへの移行

1971年、ARPAARPANETの運用責任を放棄する方法について議論していた。 ARPAの本来の使命は研究であり、ネットワークの運用業務を行うはずではなかった。 システムが稼働し始めた今、他の優先事項の妨げになっていた。

1973年初頭、 BBNはロバーツをTELENET (リモートログインプロ グラムであるTelnetと混同しないように) という新しい子会社の運営に採用した。 この子会社は、プライベートパケット交換サービスを販売する予定だった。 しかし、政府によるTELENETへの売却を推奨できなくなったロバーツは、ARPANETを一時的に国防通信局に移管する手配をした。

ロバーツはTELENETのポストを引き受ける決断をしたが、 その一方で情報処理技術部門(IPTO)の責任者だったロバーツは自身の後任を探すという課題にも直面していた。 しかし、当時の情報処理技術部門(IPTO)は、 以前ほど学術界の人々にとって魅力的な存在ではなくなっており、DARPAに来ると給与が下がることを懸念する人も多くいた。

リックライダーはロバーツが抱えている問題を聞くと、ロバーツが必要とすれば情報処理技術部門(IPTO)に戻ると申し出た。 しかし、ロバーツはそれがリックライダーの気遣いだと知っていた。 リックライダーは今や幸せにMITに戻っていた。 しかし、6か月間の捜索の後、ロバーツは他に選択肢がないと判断した。ロバーツがMITのリックのオフィスに電話すると、 リックライダーはイングランドを歩いて旅行中だと言われた。ロバーツはウェールズの真ん中で彼を見つけ、 この仕事に真剣に取り組むつもりがあるか尋ねた。 リックライダーはイエスと答えた。

リックライダーが帰国して最初に直面した問題の1つは、 かつての雇用主であるBBNとの厄介な問題だった。

BBNは、5年前に作成したIMPのソースコードの公開を拒否していた。 BBNは、ソースコードはパフォーマンスの向上やバグの修正のために頻繁に変更されるため、 時代遅れになるソフトウェアを配布することに不安を感じていると主張した。

当時、BBNの契約のほとんどを監督していたDARPAプログラムマネージャーのスティーブ・クロッカーが、 この事態の責任を負った。

彼はBBNで年間約600万ドル相当の仕事をコントロールしていた。 これはBBNの総収入の約4分の1に相当する。 「IMPコードのデータ権利について彼らと合意できなかったため、 BBNでサポートしていたすべての仕事を他の場所に移すことを真剣に検討しました」と彼は語った。 そして、スティーブ・クロッカーはBBNに自分の考えを伝えた。

リックライダーはBBNと長い付き合いがあり、 そこで働く人々を高く評価していたが、彼らの姿勢に失望した。

最終的に、スティーブ・クロッカーの脅しに直接応じ、 BBNは、わずかな手数料を請求して、 要求する人には誰にでもコードを提供することに同意した。

そして、リックライダーはボブ・カーンの助けを借りて、 ネットワークを国防通信局(DCA)に分離する仕事を終えた。

1975年の夏、 国防通信局(DCA)はDARPAからネットワーク管理の仕事を引き継いだ。 移行が行われた直後に、リックライダーはMITに戻り、 残りのキャリアをそこで過ごした。

第13章:TCPからTCP/IPへ: 国際ネットワークの夜明け

日々の管理業務から解放されたDARPAは、 新しいCATENETプロトコルの開発に集中できるようになった。

1975年までに、 スタンフォード大学の大学院生であったヨゲン・ダラルは、サーフカーンの1974年の論文の伝送制御プロトコル(TCP)を具体的な仕様に仕上げた。 TCPの仕様は、3つの機関に送られた。

1977年10月、画期的な出来事があった。サーフカーンおよび12人ほどの人々が、 パケット無線、ARPANET、 およびSATNETの3つのネットワークが連携して機能するシステムを実証した。

メッセージは、 サンフランシスコ湾岸地域からパケット無線ネット、 次にARPANET、次に衛星リンクを経由してロンドンに送られ、 パケット衛星ネットワークを経由して再びARPANETを経由して、 最終的にマリナデルレイにある南カリフォルニア大学の情報科学研究所 (ISI) に届いた。 パケットは94,000マイルを1ビットも欠落することなく移動した。

1978年初頭、 TCPについて議論するためにサーフが議長を務めたISIでの会議の休憩中に、サーフ、ポステル、および ISIでのジョン・ポステルの同僚であるダニー・コーエンが廊下で議論を交わした。 会議が再開されると、3人はグループにアイデアを提示した。 それは、パケットのルーティングを扱う伝送制御プロトコル(TCP)の一部を切り離し、 別のインターネットプロトコル (IP)を形成するというアイデアだった。

分割後、TCPはメッセージをデータグラムに分割し、 相手側でそれらを再構成し、 エラーを検出し、失われたものを再送信し、 パケットを正しい順序に戻す役割を担う。 インターネットプロトコル (IP) は、 個々のデータグラムのルーティングを担当する。

これは、インターネットの成長を促進した。 1978年までに、TCPは正式にTCP/IPになった。

1983年1月1日、ARPANETTCP/IPへの正式な移行を開始することになった。 その日、ARPANETを統制していたプロトコルは廃止され、 新しいプロトコルを実行するマシンだけがネットワーク経由で通信できるようになった。

TCP/IPが導入されると、 ネットワークはどこにでも分岐できるようになった。 プロトコルによって、 あるネットワークから別のネットワークへのデータの転送は今までよりも簡単な作業になった。ARPANETからTELENET、 キクラデス諸島まで、 当時はネットワークが驚くほど多様化していた。 実際、その数は非常に多く、 何らかの秩序を強制する試みとして、 ジョン・ポステルはネットワークに番号を割り当てるRFCを発行した。

1983年、 国防通信局(DCA)はARPANETが大きくなりすぎてセキュリティが懸念されると判断した。 同局はネットワークを2つの部分に分割し、 MILNETを新たに構築した。 MILNETは非機密の軍事情報を運ぶサイト用、ARPANETはコンピュータ研究コミュニティ用だった。

分割前、統合ネットワークには113のノードがあった。 その後、45のノードがARPANETに残り、残りはMILNETに移動した。

第4部: インターネットの歴史 - ARPANETからインターネットへ

第14章:Ethernetの誕生: ALOHAnetのヒントとロバート・メトカーフの高速有線

1973年、サーフカーンがインターネットワーキングの概念について共同研究を始めた頃、 ゼロックスパロアルト研究所(PARC)のロバート・メトカーフは新しい種類のネットワーク基盤を発明していた。 短距離ネットワーク、 またはローカルエリアネットワークと呼ばれるメトカーフのネットワークは、 異なる都市にあるコンピューターではなく、 異なる部屋にあるコンピューターを接続するネットワークだった。

そして1972年、 PARCでDARPA関連の業務に携わっていたメトカーフは、 友人のスティーブ・クロッカーのワシントンの自宅に滞在した。スティーブ・クロッカーは、 ハワイ大学のALOHAnetの主任設計者ノーマン・エイブラムソンの訪問を受けたばかりだった。メトカーフの訪問の夜、スティーブ・クロッカーはエイブラムソンのALOHAnetに関する論文の1つを部屋の外に置いていった。メトカーフはそれを拾い、寝る前に読んだ。その論文のせいで彼は夜中眠れなかった。メトカーフがノーマン・エイブラムソンの論文と偶然出会ったことで、彼の人生は大きく変わった。

メトカーフは、ALOHAnetの新しいモデルを作ることになった。

彼はハワイ大学への旅費を援助してもらい、1か月滞在した。 帰国前にALOHAnetの詳細な分析を論文に記載した。メトカーフのアイデアはハワイのシステムとはいくつかの点で異なっていた。

まず、彼のネットワークはALOHAnetより1000倍高速だった。 衝突検出機能(複数のデバイスが同時にデータを送信した結果、 データが衝突して破損するのを検出する仕組み)も備えていた。 おそらく最も重要なのは、メトカーフのネットワークは有線接続であり、 無線ではなく、異なる部屋や建物群にあるコンピューターを接続するケーブルで動作することだった。

ロバート・メトカーフとバトラー・ランプソンは、 ゼロックスの研究者デビッド・ボッグスとチャック・サッカーとともに、 ゼロックスPARCのロバート・テイラーの研究室で最初のAlto ALOHAnetを構築した。

1973年5月、メトカーフは、 19世紀の物理学者が光の伝播を説明するために提唱した仮想的な媒体「エーテル(ether)」を思い起こさせる名前を提案し、 このシステムをEthernetと名付けた。

第15章:開かれたネットワークの台頭:ARPANETからCSNET、NSFNETへ

1970年代半ば、 かつてのARPAに似た役割を果たす組織は国立科学財団(NSF)だけだった。 NSFは1950年に設立され、 基礎研究への資金提供や科学教育の強化を通じて、 科学技術の進歩を推進していた。DARPAが研究基盤や新技術を開発してきた一方で、 NSFはそれらをより広範なコミュニティへ普及させる役割を担った。

1979年当時、 全国の大学には約120のコンピュータサイエンス学部が存在していた。 しかし、ARPANETに接続されていた61のサイトのうち、 大学に設置されていたのはわずか15サイトに過ぎなかった。

1979年5月、 ウィスコンシン大学のコンピュータサイエンス学部長ラリー・ランドウェーバーは、 6つの大学の代表者をマディソンに招き、 CSNETと呼ばれる新しいコンピュータサイエンス研究ネットワークの構築について議論した。DARPAは資金援助はできなかったが、会議にボブ・カーンを顧問として派遣した。

1980年の夏、ランドウェーバーの委員会は、 最小規模の研究室でも手頃な価格で利用できるよう、 CSNETのアーキテクチャを調整する方法を提案した。

新しい提案では、NSFは5年間の立ち上げ期間のみCSNETをサポートし、 その後はユーザー料金で全額を賄うことになっていた。

1983年6月までに、70を超えるサイトが接続された。
1986年、NSFの5年間の支援期間が終了した時点で、 国内のほぼすべてのコンピュータサイエンス部門と、 多くの民間のコンピュータ研究拠点がネットワークに接続されていた。 ネットワークは財政的に安定し、自立していた。

1980年代半ば、CSNETの成功に続き、さらに多くのネットワークが登場し始めた。

その一つが BITNET(Because It's Time Network)で、 IBMシステム間の協力ネットワークとして設立された。 もう一つはUUCP(Unix-to-Unix Copy Program)で、 ベル研究所によってファイル転送とリモートコマンド実行のために構築された。 USENETは、 1980年にノースカロライナ大学とデューク大学の2台のマシン間の通信手段として始まり、 UUCPを利用した分散型ニュースネットワークへと発展した。 また、 NASAにはSpace Physics Analysis Network (SPAN) と呼ばれる独自のネットワークが存在していた。

これらの成長を続けるネットワーク群は、TCP/IPプロトコルを使って通信できたため、 次第に「インターネットプロトコル」という名称の一部から「インターネット」と呼ばれるようになった。

同じ頃、 民間企業や研究機関もTCP/IPを活用したネットワークの構築を進めており、 それに伴いルーター市場が形成された。

ゲートウェイは、ARPANETで使用されたIMP(Interface Message Processor)を進化させたもので、 異なるネットワーク間をつなぐ役割を果たしていた。 一方、ルーターはゲートウェイをさらに標準化し、 大量生産可能にした装置であった。 これにより、 ローカルエリアネットワーク(LAN)がARPANETやその他の広域ネットワークと簡単に接続できるようになった。

1980年代半ばには、 ヨーロッパでもいくつかの学術研究ネットワークが誕生し、 カナダではCDNetが構築された。 これらのネットワークは次第に、 米国政府が支援するインターネットへの接続ゲートウェイを構築するようになり、 国境を越えた通信が進展した。 こうしてインターネットは、 世界中のTCP/IPネットワークが相互接続された緩やかなマトリックスを意味するようになっていった。

この頃、 NSF(米国国立科学財団)の支援を受ける研究者たち(コンピュータ科学者に限らず、海洋学者、天文学者、化学者など)は、 ネットワークへのアクセスが研究の競争力において極めて重要であると認識していた。 しかし、大学のコンピュータサイエンス部門を中心に運用されていたCSNETだけでは、 あらゆる研究分野の需要を満たすには不十分だった。 それでも、CSNETはNSFが達成した重要な成果であり、 後に全国規模のネットワークであるNSFNETへと発展するための土台を築いた。

1985年、NSF(米国国立科学財団)は、米国各地に以下の5つのスーパーコンピュータセンターを設立した。 これらのセンターは、高性能計算リソースを提供し、科学研究を支える重要な拠点となった。

カリフォルニア大学サンディエゴ校にはサンディエゴスーパーコンピュータセンター(SDSC)が設置され、 イリノイ大学アーバナシャンペーン校にはNCSA(National Center for Supercomputing Applications)が設立された。 このNCSAは、後に初期のウェブブラウザ「Mosaic」を開発することでも知られる。 さらに、ニューヨーク州のコーネル大学にはコーネル大学理論センター(CTC)が設置され、 カーネギーメロン大学とピッツバーグ大学が共同運営するピッツバーグスーパーコンピュータセンター(PSC)も設立された。 また、ジョージア大学には、南部地域の研究者に高性能計算を提供するスーパーコンピュータセンターが設置された。

これらのスーパーコンピュータセンターを効率的に相互接続するため、 NSFは「NSFNET」と呼ばれる全国規模のバックボーン(中核となる)ネットワークの構築を決定した。NSFNETは、スーパーコンピュータセンター間の接続だけでなく、 地域ネットワークや学術機関がアクセスできる仕組みを備えていた。 また、地理的に近い学術機関が独自のコミュニティネットワークを構築し、 それをNSFNETに接続する形で全国規模のネットワークが形成されていった。

第16章:拡大の時代におけるSMTPとDNS

1980年代初頭、ネットワークにおける大きな改革は、TCP/IPの導入だけにとどまらなかった。 それまでARPANETで使用されていたすべての電子メールプログラムは、 メールの送受信にファイル転送プロトコル(FTP)を利用していたが、TCP/IPの導入に伴うネットワークの再編成により、 新しいプロトコルの導入が求められるようになった。

ISI(南カリフォルニア大学情報科学研究所)のジョン・ポステルとその同僚たちは、 電子メールのための新しい標準プロトコルを設計し、 これを「シンプルメール転送プロトコル(SMTP)」と名付けた。 SMTPは、それまでの慣例を整理しつつ、新しい制御機能をいくつか追加することで、 より効率的なメール転送を可能にした。

一方で、ネットワークの拡大に伴い、新たな問題も発生していた。 BBNのプログラマーであるクレイグ・パートリッジは、 「ホストが2,000台に達したとき、問題が本格化した」と回想している。 それまで大型メインフレームが中心だった環境が、 突然、膨大な数の小規模なマシンで溢れるようになった。 どのホストがどこにあるのかを一意に識別する仕組みの必要性が高まった。

この課題に対処するため、ジョン・ポステル、ポール・モカペリトス(ISI)、 およびクレイグ・パートリッジ(BBN)を中心とするグループが、 ドメインネームシステム(DNS)と呼ばれる実用的なスキームを考案した。 彼らは3か月をかけて詳細な設計を行い、 1983年11月にDNSを定義した2つのRFCを発表した。

DNSは、ネットワークのアドレス指定方法に革命的な変化をもたらした。 その仕組みは「木の枝分かれ」に例えられる階層構造で、 各アドレスは幹から枝、そして葉へと展開し、 ネットワークアドレスを段階的に具体化していく情報を持つ。 しかし、この階層の順序、 つまりどの情報を先頭に持ってくるかについての議論が巻き起こった。 ポステルらは、特定のアドレスから一般的なアドレスへと割り当てる方式を採用したが、 ドメイン名そのものについての議論も続き、実装が約1年遅れる結果となった。

最終的に、委員会は7つのトップレベルドメイン(TLD)を設定することで合意した。 これらは、 edu(教育機関)、 com(商業組織)、 gov(政府機関)、 mil(軍事機関)、 net(ネットワークプロバイダ)、 org(非営利組織)、 int(国際機関)であった。

DARPAは1985年、DNSの採用を促すため、関係者に強い働きかけを行い、DNSの普及が本格化した。

第17章:ARPANETの終焉:NSFNETからインターネットへ

この頃には、事実上すべてのネットワークがTCP/IPを使用していた。

ヨーロッパでもTCP/IPを基盤としたインフラが急速に広がり、 その重要性は増す一方だった。

1980年代後半、インターネットはもはやARPANETを中心とする星型の構造ではなく、ARPANET自体と同じようにメッシュ型へと進化していた。NSFNETは、CSNETが実現できなかったネットワークの民主化を進め、 急速にインターネットのバックボーンとしての役割を担うようになった。NSFNETは、ARPANET回線の25倍以上の速度で動作し、 ユーザーはARPANETに接続するかNSFNETに接続するかを選択できるようになった。 多くの人が後者を選んだのは、速度だけでなく接続がはるかに簡単だったためである。

1990年代が近づくにつれ、NSFNETを介して相互接続されたコンピュータの数は、ARPANETを介したものをはるかに上回った。ARPANETは数多くのARPAインターネットネットワークのひとつに過ぎなくなり、 その進化の遅さが目立つ「恐竜」のような存在となっていた。

一方で、DARPA(旧ARPA)の運営者たちは、ネットワークへの関心を失いつつあった。 さらにロナルド・レーガン大統領のスターウォーズ計画(戦略防衛構想)に注力していたため、ARPANETはその重要性を失いつつあった。

こうして、DARPAの経営陣はARPANETの閉鎖を決断し、 その任務はマーク・プーレンに託された。

プーレンは、ARPANETのサイトを次々とNSFNETバックボーンに移行させ、 残っていたIMP(Interface Message Processor)とTIP(Terminal Interface Processor)を1台ずつオフにしていった。IMPは電源を切られ、ケーブルを外され出荷され、ARPANETの痕跡は消え去った。 1989年末、ARPANETはついにその役割を終えた。

ARPANETが消滅した後、NSFNETとそこから生まれた地域ネットワークがインターネットの主要なバックボーンとなった。 こうして、ARPANETは歴史の中に姿を消し、 その技術と理念はNSFNETやその後のインターネットへと引き継がれていった。

第5部: インターネットの歴史 - WWWの誕生

第18章:ブラウザー革命:World Wide Webの誕生

1990年、 ジュネーブ近郊のCERN(欧州原子核研究機構)で、 研究者ティム・バーナーズ=リーによって、 インターネットの新しい仕組みであるWorld Wide Web(WWW)が開発された。

WWWは、 従来のインターネットが主にテキスト通信に限られていたのに対し、 ハイパーテキストを用いて情報をリンクで結び、 画像や音声、動画といったマルチメディアコンテンツを扱えるようにした画期的なシステムだった。 彼が設計したHTTPプロトコル(HyperText Transfer Protocol)により、 世界中のコンピューター科学者たちは、 ポイント&クリック型のブラウザを使って、 直感的に情報を閲覧・共有できるようになり、インターネットの利便性が飛躍的に向上した。

多くのブラウザは、ティム・バーナーズ=リーのオリジナルをモデルに開発され、 通常はCERNのコードライブラリを基盤としていた。 その中でも、 1993年にイリノイ大学の学生たちによって開発されたブラウザ「Mosaic」は、 使いやすいグラフィカルユーザーインターフェイスを備えたことで、 一般ユーザーにも広く受け入れられ、 Webとインターネットの普及に決定的な役割を果たした。

Mosaicの登場は、 専門家だけでなく一般ユーザーにも広く受け入れられ、 インターネットの大衆化を加速させた。

エピローグ:インターネットの歴史 - 大聖堂を築く者たち

ポール・バランは、インターネットの歴史について次のように語った。

「技術開発のプロセスは、大聖堂を建てるようなものだ。
何百年もの間、新しい人々が現れ、
それぞれが古い基礎の上に石を積み上げ、
『大聖堂を建てた』と言う。
翌月には、さらに別の石がその上に置かれる。
そして、歴史家がやってきて、
『さて、大聖堂を建てたのは誰か?』と尋ねる。
ペテロがいくつか石を積み、
パウロがさらに追加した。
しかし、自分が最も重要な部分を作ったと錯覚しないよう注意しなければならない。
現実には、すべての貢献が以前の仕事を土台にしている。
すべてが相互につながっているのだ。」

インターネットを築き上げた人々の足跡は、
まさにこの「大聖堂」のようだ。
バランの分散型ネットワークとデービスのパケットという発想が
インターネットの基盤を築いた、
テイラーがARPANETを推進し、
ロバーツが具体化した。
クラークのサブネットのアイデアはまさに天才的な閃きだった。

重要なのは「誰がインターネットを作ったのか」という問いではない。
インターネットは、一人の英雄ではなく、
数多の野心家たちによる協力と努力によって築き上げられたものだ。
各々の貢献が、次の石を置くための土台となり、すべてが有機的に結びついている。
その結晶が、今のインターネットという「大聖堂」なのだ。

参考文献:

参考文献 - 書籍:

  • IT全史 情報技術の250年を読む - 中野明 (著)
  • where wizards stay up late the origins of the internet - Katie Hafner (著)

参考文献 - 記事:

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